我レ、ニートヲ思フ。今日(けふ)この頃(柳氏へのTB)
2004年12月6日 時事ニュース 初めてトラックバックというものを使ってみる事にしたが…至って普通の日記じゃないか、これ。
横にトラックバック情報が出るぐらいで…
で、本題。
柳氏の意見には自分は基本的に賛成。
端的に言えば「周りが何か変えていかないとその人は変わらない」という考えが自分の基本的な考え方。
社会的に不適合だから引きこもり、無職でいたいと望む人が出てくるという考えからしたら、悲しいことだがこの世界が駄目ということではないか?
不適合の人たちがたくさん出てきていることは社会が少しずつ別の方向にシフトしてしまっているからだろう。
たとえば引きこもり。
彼らは本当に
『外に出たくない』
『誰にも会いたくない』
なんて考えているだろうか。不登校も同じく
『学校なんて断固としていくものか』
などと思っているだろうか。
思っていると思っている人がいたとすればどうしてそう言えるのか。
それなりの理由があるはずだ、彼らには。
そんな人ほとんどいないだろう。どうにかして出たい、学校に行きたいと道を模索しているはずだ。柳氏も書いているように第一歩を踏み出すことができないから…
踏み出すことが出来ればそれから抜ける事が出来るはずだ。
個人的な事だが、自分は中学時代忘れたくないと思い続けている事がいくつかある。数少ない思い出であり、中学生のときの自分の大切な記憶でもある(学内での事、友人との事は一部を除いて思い出すどころか記憶から消えてしまっている)
1つは部活で強豪チームのキャプテンに勝てたこと。これはうれしかった。
そして、学校に行けない自分に道を作ってくれた友人のこと。
彼には未だにお世話になってばかりいるのでいつか礼をしたいとは考えているのだがきっかけがない。
一時期自分は学校に行くことが出来なかった。原因は憶えていない。
言えに数日いたままで学校に行くことがなかった。行きたいと思っていたのは確かだ。だから分からないことも無いのだ、不登校の人たちの事は。
そこに学校に来てくれとその友人は言ってくれた。弁論大会で暮らす代表として発表するから聴きに来て欲しい、と。
そりゃ聴きに行くだろ、当然。
変わったのは社会とかそんな大きいものじゃなかった。彼が弁論大会で発表するということ、それだけが変化だったはずだ。
それだけでも踏み出せるものだった。
力ずくで引きずり出して、叱咤激励して何をしたい。
そういう人をする事が出来る人だからこそ、とどまることしか出来ない人ことは理解できない、いや、理解しない。
かわいそうだから何もしないでおこうという人は知ろうともしていない。見下してそれで良いことをしたと満足げになっているのだろう。
留まることしかできない人は、その中で本当に自責の念に駆られているに違いない。
自分の存在すら嫌になることだってあるはずだ。
何かするにしてもそれが怖くて、何か言われるんじゃないかと不安でたまらず、自分の心すら砕かれる思いで生活しているのではないだろうか。
単なるちょさっとした事でも壁のように思え、上っても結局戻る事も出来ず、疲れ果ててその場にへたり込む。
彼らは彼らなりに戦っていることぐらい認めても良いのでは?
人から見てがんばっているように見えなくても、がんばっているのはずだ。
がんばるなんて簡単な言葉じゃない事だってあるはずだ。人が簡単にできる事でもその人にはつらいことだって山ほどある。
努力をして、それが認められないことほど惨めで、自分の存在が嫌になることはない。結局最後までそれが認められないことは余計に。
自分は社会適合性が高いとはとうてい言えない。
だけど、どうにかして大学で勉強もしている。それはひとえに家族・友人たちに支えられているから。
留まっている人たちも、一人でいい。誰でもいいから頼れる人を作って欲しい。現実で無くても良い。ネットでもかまわない。
もしかしたその人がいるところで何かが変わり、それで自分が変わることだってあるはずだ。
最後に柳氏は
と締めくくっているが、そういうことをこうやって表に出すだけでも効果はあるのではないだろうか。
横にトラックバック情報が出るぐらいで…
で、本題。
柳氏の意見には自分は基本的に賛成。
端的に言えば「周りが何か変えていかないとその人は変わらない」という考えが自分の基本的な考え方。
社会的に不適合だから引きこもり、無職でいたいと望む人が出てくるという考えからしたら、悲しいことだがこの世界が駄目ということではないか?
不適合の人たちがたくさん出てきていることは社会が少しずつ別の方向にシフトしてしまっているからだろう。
たとえば引きこもり。
彼らは本当に
『外に出たくない』
『誰にも会いたくない』
なんて考えているだろうか。不登校も同じく
『学校なんて断固としていくものか』
などと思っているだろうか。
思っていると思っている人がいたとすればどうしてそう言えるのか。
それなりの理由があるはずだ、彼らには。
そんな人ほとんどいないだろう。どうにかして出たい、学校に行きたいと道を模索しているはずだ。柳氏も書いているように第一歩を踏み出すことができないから…
踏み出すことが出来ればそれから抜ける事が出来るはずだ。
個人的な事だが、自分は中学時代忘れたくないと思い続けている事がいくつかある。数少ない思い出であり、中学生のときの自分の大切な記憶でもある(学内での事、友人との事は一部を除いて思い出すどころか記憶から消えてしまっている)
1つは部活で強豪チームのキャプテンに勝てたこと。これはうれしかった。
そして、学校に行けない自分に道を作ってくれた友人のこと。
彼には未だにお世話になってばかりいるのでいつか礼をしたいとは考えているのだがきっかけがない。
一時期自分は学校に行くことが出来なかった。原因は憶えていない。
言えに数日いたままで学校に行くことがなかった。行きたいと思っていたのは確かだ。だから分からないことも無いのだ、不登校の人たちの事は。
そこに学校に来てくれとその友人は言ってくれた。弁論大会で暮らす代表として発表するから聴きに来て欲しい、と。
そりゃ聴きに行くだろ、当然。
変わったのは社会とかそんな大きいものじゃなかった。彼が弁論大会で発表するということ、それだけが変化だったはずだ。
それだけでも踏み出せるものだった。
力ずくで引きずり出して、叱咤激励して何をしたい。
そういう人をする事が出来る人だからこそ、とどまることしか出来ない人ことは理解できない、いや、理解しない。
かわいそうだから何もしないでおこうという人は知ろうともしていない。見下してそれで良いことをしたと満足げになっているのだろう。
留まることしかできない人は、その中で本当に自責の念に駆られているに違いない。
自分の存在すら嫌になることだってあるはずだ。
何かするにしてもそれが怖くて、何か言われるんじゃないかと不安でたまらず、自分の心すら砕かれる思いで生活しているのではないだろうか。
単なるちょさっとした事でも壁のように思え、上っても結局戻る事も出来ず、疲れ果ててその場にへたり込む。
彼らは彼らなりに戦っていることぐらい認めても良いのでは?
人から見てがんばっているように見えなくても、がんばっているのはずだ。
がんばるなんて簡単な言葉じゃない事だってあるはずだ。人が簡単にできる事でもその人にはつらいことだって山ほどある。
努力をして、それが認められないことほど惨めで、自分の存在が嫌になることはない。結局最後までそれが認められないことは余計に。
自分は社会適合性が高いとはとうてい言えない。
だけど、どうにかして大学で勉強もしている。それはひとえに家族・友人たちに支えられているから。
留まっている人たちも、一人でいい。誰でもいいから頼れる人を作って欲しい。現実で無くても良い。ネットでもかまわない。
もしかしたその人がいるところで何かが変わり、それで自分が変わることだってあるはずだ。
最後に柳氏は
こう言うと人によっては「じゃぁ具体的に何をしろって言うんだ?」「お前何を甘っちょろい事言ってんだ?」と言われるかもしれないが、だが俺はこの持論を変えるつもりは無いし、甘い奴だと思われてもいい。それに早急に具体案を出して解決出来る話でもない。
と締めくくっているが、そういうことをこうやって表に出すだけでも効果はあるのではないだろうか。
コメント